2023/07/12
国語の本質
いつも精神論ばかりなので、今回はその教科について具体的な考え方やアドバイスをしようと思います。
ただし、国語の本質と題しておきながら、そんな答えは見つかっておらず、あくまで現代国語教育の一側面のお話になっていくことを予めご理解ください。まず、僕と国語の出会いから。
国語を解く、国語の授業を受けるにあたり、いつも何をやっているんだ?という実感でした。
傍線部はなぜかと言われ、よくわからないなりにその根拠を示してみると、違う部分を抜粋してみたり、もっと客観的に書けだのと指摘されるなりで、そもそもわかっていないから答えを見ても、「ああ。」ともならない。とりあえず漢字だけ暗記して少しでも点数を取ろうという小学生の小テストのような感覚。
こういうとらえどころのなさというのが国語の勉強しがたく、退屈で、つまらないという印象を与える根源だと思っています。
しかし僕はある二人の先生との出会いから、国語、ひいては文学や言葉に対する見方が変わり、間違っていたとしても面白いという印象になっていきました。
まず一人目は、小説の見方を広げてくれた師のこと。
その方は、余りにも拡大解釈を受け入れてくれるだけでなく、我々が思いつかない、ついていけなくなるほど、自信の突飛で独創的な解釈をこじつけて説得してくるような方でした。
例えば、ある小説の引用で”僕はハンバーグが好きだ、でも和食も嫌いじゃない”という感じの文章があったとき、その背景にはロック好きな男とフォークソング好きな女がよく音楽観をめぐりよく言い合いをする間柄で、舞台はファミレスで男がいつも頼まないサバ味噌煮定食を頼んだ時に女が指摘したときのセリフだったと思う。
当時の僕はひどいもので、何の含みも持たず、本当に食の趣向について話していたと思っていました。先生は「この男の子は大きな一歩を踏みだしたな」といって教室の空気をぽかーんとさせてから、こう続けました。「これはロックばかりじゃなくて、これからは別ジャンルの音楽を聴くっていう意思表明ともとれる。僕は無理がある、と思いつつもいろんなさりげないセリフを伝って説得されるうちに、確かにそうかもと思い始めていました。
極めつけには、「これは実は愛の告白なんだ。」といい、抜粋の小説の前後を先生自身が創造し、ギャル好きだった男の子とその子に思いを寄せながらも真逆のタイプの素朴な女の子という設定にしてしまい、ついに大逆転で男の心をつかんだともとれる。と。
僕はその人の国語が好きでたまらなかったのです。知らない間に何でもなかったワンシーンが大きな意味を持つマジックを見せられているようで。まるで文と文を集めてつなげて、一つの真実を作り上げる探偵のような授業が楽しく、自分で勉強する時も点数や正解を求めず、好きに想像し、創造していく、勉強とも呼べないような勉強に変わったとき、確かに僕は国語を好きになっていました。
文の、現代国語の持つ一つの側面は試験のために画一的な答えを求められること。しかしそれは国語の入り口に過ぎない。その文を拡大解釈する中で、これは全員納得がいくというものが客観的ということなんだと知ったとき、僕にとってあれほど不明だった客観的の意味が分かるようになっていました。
さて、(もう一人の先生との出会いをここに記すには少し疲れてきましたので今後記すとして)落としどころが欲しいころになってきました。
国語の本質は何か断定しかねますが、本質ではないものは漢字を覚えたり、一つの客観的な答えを出す教科ではないということ。独自で文に意味を持たせ、筆者と読者、またほかの読者と無数の解釈を楽しむ。漢字や客観的な答えというのはそのための手段に過ぎないというのが僕の国語に対する拡大解釈でございます。