2023/08/15
何のために学ぶかを育てる
受験はいかに結果を残すかというゲームです。というところに終始している印象を受けます。つまりその目的は結果、地位に始まり、焦りと劣等感、ひいては苦痛に満ちた無益な受験という悲しい結末です。どう学ぶかに終始する前に、まず育むべきは”何のための学びか”という気がします。
学業とはわかりやすく点数があり、学歴があるものですから、人の序列化が測れるところとなってきました。その感覚は焦りと高慢に満ちた僕の学生時代の感覚と一致するように思います。
しかし僕はその過程で遭遇する経験の一つ一つの感情自体が学びであり教養となる、実際にそうなれる受験を掲げたいのです。それを願いやコンセプトとして設定するにとどまらず、明確な目標として設定していたいのです。
受験期の僕は合格のための学習として、文法や単語の知識を詰め込み、教科書に載っていない情報は詮索しないようにしていました。また、点数にならない学習になった場合は憤慨したものです。合格への近道を探し、その寄り道や渋滞は障害となっていました。
しかし大学生となり、暇を持て余したことで、受験時代の知識が何だったのか(歴史の事件はどんな経緯でどんな意味があったかとか、古文で習った作品のメッセージが込められていたのか)研究する機会に恵まれました。
そこでは意外にも小難しい話は少なく不可解な言葉も必要なく、世界の新しい発見と自信の経験との共通点に満ちた冒険となりました。
その時ふと思い出したのは、小学生時代の登下校です。家まで二キロの道のりをまっすぐ帰りたい時ほど恐ろしく長く感じ、ふらふら立ち寄りたいところに行って流れ着くように家に帰ったときは苦痛を感じていなかった不思議を思い出したのです。
学業の目標が登下校になってしまうのは苦痛を伴い、知らぬうちに世界とのつながり感みたいなものと隔絶されます。そのうえでもある程度受験くらいのゲームなら結果は残せるでしょう。しかしそこで残る結果から得る自尊心も劣等感も不健全極まりないという感覚があります。結局そこにあるのは、焦りと劣等による激しい渇きです。
僕の教室ではつい合格を掲げた知識の詰め込みに終始したくなる焦りを制止し、感動や発見・共感に満ちた教養を掲げていたい。一方的に教えて暗記する学校方式の勉強でもなく、字面だけで情報として回収するような作業でもない、対話と経験に満ちた学習から逸脱したくないものです。
僕の教室で育てるのは知識ではなく、何のために学んでいるかという喜びの種です。その果実が実るころには結果がついてきていると信じています。