お知らせ


2023/09/12

めんどくささについて

生きていると辛い事や悲しい事、うれしい事や楽しい事より

ただめんどくさい普通の事の連続のように感じるのです。

勉強も仕事も、やはり現実的な話、毎日が驚きと成長・成功に満ちているわけではなく、何の進展もない時間が多くを占めていて、それこそが漠然とした不快感につながるような気がします。

学生諸君からやる気が出ない日はどうすればいいかという相談を受けます。どう答えればいいものか毎回苦心しますがやはり受験が差し迫るまさにその日まで、やる気なんて起きないとあきらめてしまいたいものです。


僕たちのやる気の根源は何でしょうか。あくまで推測ですが、生存の危機、生存に必要なことを実感したとき勝手に体が動くのではないでしょうか。飢餓に瀕して食糧採集がめんどくさい人はいないでしょう。

まして勉強は学生たちにとって、その危機を実感するに至らないでしょうし、何より掃除と違ってすぐに結果に反映されないのですからやる気が出ないのは当然でしょう。


だらしない僕の私生活も、友人が来るときやシンクに洗い物がたまればさすがに掃除に踏み切る意思が芽生えます。

学生時代もコツコツ勉強したわけではなく、いびつで爆発的な承認欲求によって突き動かされ、三か月ほど猛勉強をしたにすぎませんでした。なのでコツコツ頑張る方法もなければ、そういう類の助言をする立場ではないのです。

コツコツ先のことを考えられないだらしなさがいかにも人間だなと、自分を愛している始末です。

まして勉強は学生たちにとって、その危機を実感するに至らないでしょうし、何より掃除と違ってすぐに結果に反映されないのですからやる気が出ないのは当然でしょう。



しかしあえてがんばれない人間に助言をしたい。

がんばれというのでもなく、仕方ないとあきらめるでもない、第三の選択肢。

僕たちは生涯、死なない程度に何かしらのめんどくさい事をし続けることが宿命づけられたと思い込むのです。結果を出す必要はない、でも怠けサボってもいけない。

「めんどくさいな、大したことできへんて、でもしゃあないな」

という言葉を合言葉のように、淡々とこなしていくのです。


もし何もしないで、膨大な暇を与えられたり、毎日楽しい事や刺激的なことに囲まれると、一見夢のような心地かもしれませんが、おそらくものの一か月で飽き、苦痛につながるでしょう。

僕は中学時代に厳しい野球が嫌でやめたとき、遊びたくて部活で進学せずに入学した大学時代、そしてお客さんの全くいなかった一人で仕事を始めだしたころ。三度の暇という苦痛を経験しました。

だからこそ、めんどくさい事、されど体と頭を動かしてしなければならない課題があることに一抹のありがたみがあるのかもしれません。

それでもめんどくさいです。


だから、今目の前にあるめんどくさいことを、一緒に、「めんどくさ」といいながら、一緒にこなしていきましょう。