2023/05/23
諸君、狂い給え。
大真面目に狂っていたい、狂っていてほしい。
それが僕の渾身の願いです。
最初のブログということで自分の戒めを含めて
当たり障りのない事は書かず、何かを否定することなく、偉そうに説教垂れることなく
僕が経験したこと、信じたいことを書いていきたく思っています。
大いに納得したり、違和感を感じたり、たまにくすっと笑ってもらって、僕との間にある隔たりや結びつきを味わってください!
さて、題名にも書いた 諸君、狂い給え という言葉は幕末期思想家の吉田松陰の言葉です。
その真意を推し量ることは出来かねますが、そのまま受け取ると「もっとはみ出していると思う言動に踏み切りなさい」といわれている気がして
不思議なことに気持ちが軽くなり何事にも勇気と自信が湧いてくる魔法の言葉です。
僕が受験をするというのは僕の中でも、社会的にも大きな勇気を要する、狂った決断でした。
夏休みが終わっても偏差値は30台、勉強をしてこなかったので何が何かもわからない。スポーツ推薦や指定校の道も開かれていたのに、安全ルートではなく危険で努力を求められる過酷な状況に身を置かなければ自分が保たれない。そんな気がして、十分くるっていることは承知の上で不安定な道に踏み出した怖さと後悔しつつも自分で選んだ道だと納得させながら精進した日々を思い出しては、それを誇り、その誇りが今日の自分を支えています。
狂わなければ努力と好奇心が失せてしまい、それが失せれば人として生きる喜びというか、営み的なものが欠如しそうで怖いのです。
大きな決断から小さいためらいまで、まだまだ悩み葛藤の尽きない自分ではありますが、自分を誇り、運命を受け入れるためにも狂っていたいと思える経験でした。
しかし弱い自分に目を移すと、何かと真面目に、お利口に、はみ出さぬよう生きてきた自分は狂うことに大いに恐怖を抱いています。
人に敷かれたレールを歩く安心感を知ってしまったのでしょう。レールの敷かれた人生は嫌だというには若気の至りというか怖いもの知らずな時にはできることですが、怖さを知ったうえでどれだけレールを踏み外しにかかれるかに勇敢さと誇りがかかっているように思えてなりません。
さらに、持論ではありますが、神様?自然の摂理?は本来僕たちを千差万別にに作っていると僕は信じています。
ということはやはり我々は狂い、異なっていてこそ本分という気がしてなりません。
僕たちは狂ってさえいられるなら、どこまでも強く、たくましく、勇敢に生きていられると信じています。
今抱えている生徒には、どうかお利巧な人間ではなく、狂っていてほしい。そう願わずにはいられません。
もうしばらくは問題児たれ、狂い給え。人生の勇敢さと誇りと躍動のために。